今回のテーマは「ショパン」♪

音楽

ごきげんよう!!Atelier FlorenceのToshiko(登志子)です。

今日のテーマは、音楽です。2019年11月兵庫県立美術館にて

“La Vie est Belle”(ラヴィエ ベル)-人生は美しいPart Ⅱ- 

(L‘Oiseau de Chopin・ショパンの鳥)” と題し

人生は出会い・人生は愛・人生は別れをテーマとして

チェロと絵画の演奏会を開催致しました。

その際にご紹介させて頂きましたショパンにスポットを当ててみました。

偉大なる音楽家ショパンはポーランドのワルシャワの近郊の村で生まれ

6歳でピアノを習い始めました。

7歳で初めての作曲をするなど「ワルシャワの天才児」と呼ばれ注目を集めます。

20歳までの人生の前半をワルシャワで過ごしていますが、

21歳でパリに移り住み「パリで最も著名な人物の一人」として認められ

39歳でその短い生涯を終えました。

祖国ポーランドへの想いを忘れることは無かったようです。

ショパンがはじめてのピアノ演奏会を開いたのが現在の大統領宮殿です。

ショパン学んだ大学の門には、

“フレデリックショパンは1817年から1827年までワルシャワ大学のキャンパスで暮らし、学んだ”

とプレートが掲げられています。

19世紀初頭、ワルシャワ最大のカトリック教会であった聖十字架教会にショパンの心臓が

安置されています。

ショパンはパリで亡くなりましたが自分の亡骸をポーランドに戻してほしいと遺言を残しました。

しかし、政治的な理由でそれは叶いませんでした。

心臓だけはワルシャワへと運ばれ安置されることになりました。

次にショパンの交遊関係のお話を致します。

1835年ショパンは生涯最後となる両親との再会をチェコ ボヘミア西部の都市カルロヴィ・ヴァリで

果たしました。以後病弱であったショパンは両親との再会はできず亡くなってしまいます。

最期に立ち会ったショパンの家族は妹だけでした。

カルロヴィ・ヴァリで両親と会ったのち当時住んでいたパリへと戻る途中で、

彼はワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵の娘マリアと出会い、

恋に落ちます。

当時彼女は16歳でしたが、ショパンの求婚を受入れ事実上婚約となりました。

しかし、マリアの母親は一旦認めたもののショパンの健康状態の悪さを知ると婚約破棄を促し、

婚約延期の後、ヴォジンスキ家がショパンに婚約破棄を申し出ました。

彼は従うことしかできず、マリアからもらったバラの花、そしてマリアと彼女の母親から

もらった手紙を紙包みにリボンで包みその上に「Moja bieda」(我が哀しみ)と書いたといいます。

生涯大事な宝物として以後亡くなるまでの13年間、片時も放すことなく持ち歩いたそうです。

この失恋への想いは彼の大作『ワルツ 変イ長調』の中に現れており、

現在でも『別れのワルツ』の名で有名です。美しく、少し悲しい・・・曲です。

その後、ワルシャワ蜂起(ほうき)の知らせも受け仲間たちとも戦えない自分の立場に

悶々とした想いを抱きながら、故郷の人々の熱い思いに応える為、ここで何とか成功するしかないと

崖っぷちに立たされた思いだったでしょう。

サロンではさまざまの人と出会います。

シューマンからは、「天才だ・・・脱帽したまえ」と賛辞を受けています。

19世紀のパリは音楽家だけでなく、芸術が花開き詩人のハイネ、ボートレール・、バルザック、

フランスを代表する女流作家のジョルジュ・サンドそんなサロンに集まる人々の中で終世、

友として深い関係を結んでいたのはチェリストのフランショームだけでした。

26歳のショパンは女流作家のジョルジュ・サンドと出会い2年後に恋人同士となりました。

サンドと持病の結核療養のためにスペインのマヨルカ島に行きました。

地中海の西にあるマヨルカ島は気候の温暖な美しい島で健康を害していたショパンにとっては

まさに素晴らしい療養地として選ばれました。

当初はさわやかな空気と輝く太陽に満たされ幸せな日々を過ごす二人でしたが、

やがて島が雨季に入ると湿気と寒さのため、ショパンの病状は急激に悪化してしまい、

ショパンは苦しみながら作曲を続けそんなショパンをサンドは献身的に介抱しました。

1839年6月、マヨルカ島を出たショパンたちはフランス中央部ノアン・ヴィックスという

小さな村にあるサンドの館に1846年までの約8年間にわったて夏を過ごし、多くの作曲をしました。

バラードやノックターン・ピアノ・ソナタ第2番「葬送」や第3番など数々の傑作が

この地で生み出されました。

また、サンド邸には、ドラクロワやフロペール、バルザックといった著名人も訪れていました。

サンドはショパンの音楽的才能を愛し、ショパンがその才能を発揮することができるようにと、

献身的にショパンに尽くした自らも小説家という仕事をもっていたにもかかわらず、

サンドは日々の雑事を全て引き受け、実に細かくショパンの面倒をみた。

サンドなくしてショパンはあれほど多くの傑作を世に送りだすことは出来なっかたでしょう。

ジョルジュ・サンドを通して知り合いショパンが尊敬し仲の良かった友人の

画家ウジェーヌ・ドラクロワですが、1798年生まれショパンより12歳年上です。

フランスを代表する画家でゴッホやルノワールなど多くの画家たちに影響を与えた人物ですが、

ドラクロワ自身もショパンを尊敬していてショパンが亡くなる晩年には、

何度もお見舞いに足を運んだそうです。

ショパンが28歳の頃、ドラクロワは、ピアノにむかうショパンとそれに耳を傾けるサンドを

描いた肖像画があります。しかし、その絵は完成することなくドラクロワは他界しています。

そして、その後、誰かの手によって絵は破られてしまいました。

その経緯は今もわかっていませんが一説には、ジョルジュ・サンドの息子でドラクロワの弟子でも

あったモーリスが、破ったとも言われています。実際、ショパンとジョルジュ・サンドは、

結婚することなく別れてしまいましたがこの絵が破られたことと重なり、

切ない気持ちになりますね。

この絵は、ショパンが描かれて部分は、パリのルーブル美術館に、ジョルジュ・サンドが

描かれている部分は、コペンハーゲンのオードロップゴー美術館に展示されています。

今でも別々に展示されていることが、益々、悲しい気持ちになりますね。

以前にショパンの展覧会でこの2つの絵を合成した復元画が披露されたことがありました。

2つの原画を並べて見れると良いですね。

最後までお読み頂きありがとうございました。

コメント

  1. マイケル ロバート より:

    とてもいい!!

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